カール1世ルートヴィヒ(Karl I. Ludwig, 1617年12月22日 - 1680年8月28日)はプファルツ選帝侯(在位:1648年 - 1680年)。フリードリヒ5世(ボヘミア冬王)とイングランド王ジェームズ1世の娘エリザベスの次男。弟にカンバーランド公ルパート(ループレヒト)、妹にイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の母ゾフィーがいる。 兄フリードリヒ・ハインリヒが1629年に若くして水死し、1632年に父フリードリヒ5世が死去したため家督を継いだ。1648年のヴェストファーレン条約によって選帝侯位を回復した。 娘エリーザベト・シャルロッテをフランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップに嫁がせたが、選帝侯位を継承したカール2世が嗣子なくして死去すると、ルイ14世は義妹の権利を主張してプファルツ継承戦争を起こすことになった。 グスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf, 1594年12月9日 - 1632年11月6日)はヴァーサ朝第6代、スウェーデン王国最盛期の国王(在位:1611年 - 1632年)。通称「北方の獅子」。グスタフ・アドルフとも呼ばれる。三十年戦争における主要人物の一人。スウェーデン王カール9世と2度目の王妃クリスティーナの息子。娘は後のスウェーデン女王クリスティーナ。グスタフ・アドルフの時代からおよそ1世紀の間のスウェーデンは、「バルト帝国時代」と呼称されている。 グスタフ・アドルフは、外為 から新教主義を基調とした高い水準の教育を受けて育った。語学にも長け、ラテン語・ドイツ語・オランダ語・フランス語・イタリア語を自国語の如く話し、そのほかにもスペイン語・英語・スコットランド語・ポーランド語・ロシア語を理解したという。 グスタフは9歳で早くも公務に就き、外為 の時には病気の父に代わって議会(身分制議会)で堂々たる演説をした。王太子時代にロシア帝国の内戦(大動乱)に介入。ロシア皇帝位放棄の代償にカレリアなどを獲得した(1618年、ストルボヴァの和約)。スウェーデンの大国時代はこの頃から始まるという意見が多い。 1611年、グスタフは父の死によって17歳で即位したが、そのときスウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。デンマークには苦戦を強いられたが、ロシアをバルト海から締め出すことに成功し、グスタフはようやく戴冠式を挙行した(1617年)。その後、ドイツの有力貴族であるブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラと結婚した。これはドイツ進出を狙った政略結婚であったが、妻は情緒不安定で、グスタフの悩みの種となった。 グスタフは次にポーランドとの戦争に全力を挙げ、スウェーデンを同盟者としたがっていたフランスの調停もあって、スウェーデンに有利な休戦条約を成立させた。ポーランドからリーフランド・メーメル・ダンツィヒ平原を獲得し、スウェーデンのバルト海制覇はほぼ実現した。 グスタフ・アドルフの次の戦略は、ドイツで起こった新旧諸侯間の三十年戦争に参戦して、新教諸侯を支援することであった。神聖ローマ皇帝を中心とするカトリック勢力を弱めることによって、北ドイツのスウェーデン領を安定させようとしたのである。グスタフは1630年ドイツに侵入し、オーデル川中・下流域を占領した。 次の目標は、皇帝軍に占拠されていた新教都市マクデブルクの救援であった。しかし、新教侯国のザクセンとブランデンブルクがスウェーデンの強大化に不安を持ち、グスタフ軍の領内通過を拒否したため、マクデブルクは皇帝軍の手に落ち、徹底的に略奪された(マクデブルクの強奪)。同市の運命は新教諸侯を驚かせ、ブランデンブルクとザクセンはスウェーデンと同盟、同年9月、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン・ザクセン連合軍が皇帝軍を打ち破った。この戦いは、それまで劣勢だった新教勢力を大きく勇気づけ、三十年戦争の転換点となった。スウェーデン軍はこの後もレヒ川の戦いなどで勝利し、皇帝軍を追い詰めていった。 皇帝フェルディナント2世はいったん罷免したくりっく365 ヴァレンシュタインを呼び戻し、大軍を動員させてスウェーデン軍に当たらせた。両軍は1632年、リュッツェンで激突した(リュッツェンの戦い)。戦闘は当初スウェーデン軍が優勢であったが、強度の近視だったグスタフは、霧の中で味方の軍からはぐれて敵中に飛び出してしまい、戦死した。戦闘には勝利したスウェーデン軍だが、王を失ったため、その後はいくつかの軍団に分かれて転戦し、各地で略奪を働き(この点は皇帝軍も同様だったが)、ドイツ諸国は荒廃の極みに達した。しかしグスタフの築いたスウェーデン軍は、ホルン、トルステンソン、バネール、ウランゲルら優れた将軍を輩出し、三十年戦争を乗り切って行くのである。 グスタフは対外戦争を続ける一方で、国内の司法・行政制度を整え、商工業を奨励し、教育の振興にも努めた。大規模な製鉄所が建設され、武器工場も近代化されたため、武器を外国に輸出するまでになった(武器輸出国としてのスウェーデンは、現代にまで至る実績と伝統がある)。 グスタフ・アドルフは国内に絶対王政を確立し、スウェーデンを強国にした英雄であったが、国家としても王個人としてもその絶頂期に突如この世を去った。グスタフの死後、スウェーデンの勢いは翳り、三十年戦争における主導権を失った。この事は、グスタフの存在がスウェーデン、ヨーロッパに与えたインパクトがいかに強かったかを証明している。国内においても近代的な改革を各方面で断行した事から、政戦両略の名君と呼んでも差支えがないだろう。また、軍事においてもグスタフ・アドルフ彼は革命者であった。オランダで起こった軍事革命を取り入れ、スウェーデンの軍事をそれまでと一変させたのである。その成果は三十年戦争で本領を発揮し、皇帝軍の旧態依然とした戦法を打ち砕いた(ただし、その後こうした軍組織や新戦術は皇帝軍にも模倣され、一般化した)。これらの改革によって、グスタフ・アドルフの時代、スウェーデンは一気に強国へと躍り出たのである。 王の死後、グスタフの宰相だったワラント は、幼くして女王となったグスタフの娘クリスティーナの摂政としてスウェーデンの国政を握った。彼はフランスを同盟に引き入れて戦争に直接介入させるなど、最終的に三十年戦争を勝利に導いたのである。こうしてグスタフの築き上げた国家は、北方の覇権を確立し、バルト帝国が誕生したのである。 後年、フランス皇帝ナポレオン1世は、グスタフ・アドルフを歴史上の7人の英雄のうちの1人と称えている。 グスタフ・アドルフが不動産投資 に介入した理由として挙げられているのが、「古ゴート主義」である。一般的には、ドイツのプロテスタント守護の為の侵攻と言われているが、グスタフの理想は、はるかにそれを上回るものであった。グスタフが着目したのは、前世紀から提唱された「ゴート起源説」である。スウェーデン・ヴァーサ家は、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパを席巻したゴート人の末裔であると言う伝承である。ゴート人は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸を支配したと言う。この伝承は、スウェーデンでは古来より伝えられ、スウェーデンの建国神話と結びついている。グスタフもこの説を信奉し、自らもそれに倣い、ヨーロッパの支配を目論むのである。最終的には、神聖ローマ帝国の帝冠も視野に入れていたと言われている。これはスウェーデン普遍主義と呼ばれ、ハプスブルク家が目論む普遍主義に対抗するものであった。 グスタフは1632年に戦死し、宰相オクセンシェルナがその政策を引き継いだ。オクセンシェルナはグスタフの娘、クリスティーナ女王にスウェーデン普遍主義の理想を重ね合わせたが、女王はその理想よりもキリスト教徒の和解と統一の理想を掲げ、古ゴート主義は三十年戦争の終結と共に終焉した。 グスタフは、スウェーデン普遍主義に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorm, Gothorum, et Vandalorum regen)を自称し、さらにフィンランド大公を兼任した。なおこの称号は、娘のクリスティーナ女王にも引き継がれた。