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金庫株

最初期の槍:銃の比率はおおよそ3:1であった。ここから重騎兵の脅威がいまだ大きく、槍兵の防御能力が重視されていたのが理解できる。時代が進み、火器の重要性が広く認識され、またピストル騎兵の台頭で重騎兵の脅威が減少するにつれて、この比率は大きく変化した。16世紀後半には2:1となり、16世紀末には1.5:1、17世紀初頭には1:1となっていた。その後も槍兵は減少し続け、17世紀末に銃剣が開発されると、槍兵は完全に姿を消した。もっとも、上記のように、それからまもなくテルシオも消滅したのである。 スペイン方陣。画像は槍兵が多い最初期のもの。時代が進むにつれて、周囲や四隅の銃兵が増加していった。戦闘時、テルシオは槍兵と銃兵を組み合わせて一つの大方陣を作った。まず槍兵に縦深20列から30列程度の方陣を組ませる。この槍方陣の四方を2列の銃兵が取り囲む。この時、正面には威力の高いマスケット銃兵を置く。さらに、四隅に縦深4列から6列程度の銃兵の小方陣を組む。これによって全方位に死角のない方陣が完成する。ただし、数字は完全定数のものである。兵力が実際には半数だったのと同様に、こちらも割り引く必要がある。また、状況に応じて縦深の深さや横列の長さは適宜変更した。スペインはこの戦闘隊形を"Cuadro de Terreno"(野戦方陣)と呼んだ。他国では、この戦闘隊形自体をテルシオと呼び、あるいは単にスペイン方陣と呼んだ。 一見してテルシオの防御偏重は明らかである。これはスペインのFX から導き出されたものだった。レコンキスタの戦いは、山岳地帯の多いイベリア半島の地勢から、その多くがイスラムの拠点を奪取する攻城戦であった。テルシオ以前の装備が、要塞突入時の乱戦に適した剣と円盾であったことからもそれは伺える。イタリア戦争でフランスの重騎兵の脅威にさらされたスペインは、騎兵の機動力と衝撃力を減殺する方法を考えた。城壁、火器、塹壕、といった攻城戦の防御的要素が導き出されるのは、そうした過去の経験からすれば当然であった。その結果、これほどまでに防御を重視した大方陣が完成したのである。 つまり、テルシオは歩兵によって構成される要塞だった。それゆえにテルシオの機動力は劣悪で、移動や方向転換には莫大な時間がかかった。これは、テルシオの目的が防御にあることを考えれば当然の帰結であった。敵を迎え撃つだけならば、動く必要がないからである。しかし、それは同時にこちらから攻撃に出るのが困難であることを意味した。この欠陥を補うために、スペインはテルシオの前面に砲を配備した。これもまた、要塞の概念を野戦に持ち込んだものだった。 テルシオを破るには、攻城戦と同様に外壁(槍兵)を削るか、砲撃によって隊形そのものを崩すしかなかった。しかし、16世紀の巨大で鈍重な大砲では、野戦でテルシオを崩すほどの砲撃を加えるのは難しかった。結局、スペインの敵が選択したのは、彼らのやり方を模倣することだった。 この結果、16世紀の戦場では、FX がにらみあい、衝突して、少しずつ相手の槍兵を削っていくという光景が繰り広げられた。勝利を得るためには、相手が損害に耐え切れずに撤退するか、兵の士気が低下して自己崩壊するのを待つしかなかった。この時代は傭兵が軍の主力であったため、部隊としての結束力が低く、士気低下による崩壊は引き起こしやすかった。この点、常備軍的なテルシオは結束力が高く、優位に立つことができたのである。だが、たとえ崩したとしても壊滅的な打撃を与えることは難しかった。テルシオでは追撃ができなかったからである。 野戦による早期の決着が期待できる時代ではなかった。戦術的にも戦略的にも防御が重視されるようになり、決戦よりも機動戦や消耗戦が多くなった。このため、16世紀から18世紀にかけて、戦争の期間は長期化した。 軍制改革の先駆者、ナッサウ伯マウリッツ。1568年、スペインの支配下にあったネーデルラントで反乱が勃発し、八十年戦争が開始された。スペインは鎮圧のためにテルシオを常時ネーデルラントに駐屯させた。また、各地の反乱予防のために、地元民を監視する多数の要塞を建設した。要塞の数に比例して駐屯兵も増加し、スペイン軍全体の規模は拡大した。スペイン軍が拡大すると、対抗上フランスなど他国も軍を拡大せざるをえなかった。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの軍隊が肥大化した原因のひとつは、ネーデルラントでスペインがとった戦略に起因していたのである。 ネーデルラント総督ナッサウ伯マウリッツは、テルシオに勝利する方法を研究した。テルシオの最大の欠陥は、攻撃に使用できない(あるいは使用し難い)という点にある。ここでマウリッツは火器に着目した。当時の火器は命中率、信頼性ともに低いものだったが、槍方陣に対しては優位に立てたからである。マウリッツは中隊の槍兵を減少させ、銃兵を増加させた。前述のとおり、16世紀末のテルシオの槍:銃の比率は1.5:1であったが、これをマウリッツは逆転させ、1:1.5としたのである。17世紀半ばには、オランダ軍の火器はさらに増加し、1:2になっていた。 以下、16世紀末のオランダ軍の編成と戦闘隊形について記述する。 オランダ軍の基本編成は中隊で、定数は150名から100名程度だった。内訳は士官と事務員14名、パイク兵50名、銃兵86名だった(150名の場合)。通常、10個から20個中隊で一個連隊とし、これを行政上の管理単位とした。戦時には、4個から6個FX の中隊を組み合わせた大隊(戦隊)を作った。大隊はテルシオの欠陥を払拭するための新隊形であった。 オランダ式大隊。左は銃兵が両翼についた隊形、右は銃兵が後方についた隊形である。銃兵を状況にあわせて展開可能なのがオランダ式大隊の強みだった。戦闘隊形としてのテルシオの欠陥は2点ある。その巨大さからくる鈍重さが1点。前列の兵が交戦している間、後列の兵は無駄になるというのが2点目である。これらの欠陥を改良すべく、マウリッツが編み出したのがオランダ式大隊と呼ばれる戦闘隊形である。テルシオよりも浅い縦深10列の槍兵方陣を組ませ、その両翼ないしは後方に、同じく縦深10列の銃兵方陣を配置するのである。大規模な会戦では、この大隊を交互に並べた。実質的に、オランダ式大隊はテルシオの縮小版といえるものだった。これによって部隊の機動力や外国為替 は向上したが、反対に防御力は低下した。しかし、マウリッツはそれで十分だと考えていた。この頃にはすでに重騎兵の脅威が減少していたため、以前ほど防御を重視する必要はなかったのである。 さらにマウリッツは斉射戦術を発展させ、背面行進(カウンター・マーチ)と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動して装填を行う。その間に、後列の兵が進み出て斉射をする。これを繰り返すことによって、理論上は途切れることなく斉射を浴びせかけられることができる。いわゆる長篠の戦いの三段撃ちと同じ戦術である(ただし、長篠三段撃ちには疑問が提示されている)。このような複雑な部隊機動を行うためには、普段からの訓練が必要であった。マウリッツは銃兵の一連の行動をパターン化し、それに基づいて訓練を施した。こうした教育方法はオランダ式教練と呼ばれ、その効果の高さから瞬く間に各国に波及していった。スウェーデン王グスタフ2世アドルフは、マウリッツ式の軍制改革をさらに発展させた。グスタフ・アドルフは、全国的な徴兵制を布き、動員兵力の増加につとめた。また、部隊の柔軟性を高めるため、中隊あたりの士官の数を大幅に増加させた。 スウェーデン式大隊。オランダ式大隊以上に柔軟な銃兵の展開が可能だった。スウェーデン軍の基本単位は中隊で、定数は150名であった。その内訳は士官16名、パイク兵54名、マスケット銃兵72名、事務員8名であった。通常、8個中隊で1個連隊とし、これを行政上の管理単位とした。オランダ軍同様、戦時に数個中隊を組み合わせたが、グスタフ・アドルフはオランダ式大隊に改良を加えてスウェーデン式大隊を生み出し、さらに上の単位として旅団を創設した。 スウェーデン式大隊は、槍兵方陣の後方に銃兵方陣を置き、さらに後方に予備の銃兵方陣を置くというものである。3列目の銃兵は、いつでも両翼の支援に回ることができ、より効率的な火力の発揮が可能となった。大規模な戦闘時には、この大隊を複雑に組み合わせたスウェーデン式旅団を運用した。さらにグスタフ・アドルフは、各旅団の間隔に連隊砲と呼ばれる軽量小型の砲を配置し、全体の火力を高めた。 また、グスタフ・アドルフは背面行進以上に攻撃的な、漸進斉射戦術と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動せず、その場で装填を行う。後列の兵は前列の兵の前に進み出て斉射をする。これを繰り返すことによって、敵に接近しながら斉射を加えるのである。この漸進斉射戦術は、敵の隊列を撃破する可能性を銃兵に与えた。 ブライテンフェルトの戦いのグスタフ・アドルフ。さらにグスタフ・アドルフは、騎兵、砲兵にも改革を加えた。戦闘時、スウェーデン騎兵は、カラコールを用いず、抜刀突撃戦術(サーベル・チャージ)を使用した。これは失われていた騎兵の打撃力を一定ではあるが回復することができた。また、騎兵にマスケット銃兵の小部隊を付随させ、騎兵の火力を大きく高めた(ただし、機動力は落ちた)。砲兵の充実は、グスタフ・アドルフが特に力を注いだ点だった。三十年戦争に参加した1630年の時点で、スウェーデン軍は他国に倍する砲兵を備えていた。さらに、歩兵支援のために連隊砲を開発したことは前述のとおりである。