スウェーデン軍の特に傑出していた点は、これら歩兵、騎兵、砲兵を単独の兵科ではなく、組み合わせて運用したことである。こうした運用方法は三兵戦術と呼ばれる。1631年のブライテンフェルトの戦いで、三兵戦術を用いたスウェーデン軍は、皇帝軍のスペイン方陣を破った。このスウェーデン式軍制改革は、オランダ式軍制改革と同様に大きな影響を与えた。テルシオがスペイン方陣を廃止し、新隊形を開発するのは1635年のことである。それはスペイン方陣とスウェーデン式大隊を合成したものだった。 1643年のロクロワの戦い。スペインのテルシオは大敗を喫し、その価値を大きく低下させた。イタリア戦争以来、フランスはスペインの主敵だった。16世紀初頭はテルシオによってスペインが優位に立ったが、間もなくフランスはその軍制を模倣して対抗した。ただし、フランス軍は依然として重騎兵を軍の中核にしていた。17世紀になると、フランスはオランダ式軍制改革を取り入れた。ここでも騎兵を重視するフランス軍は、重騎兵、軽騎兵、竜騎兵を組み合わせて効果的に使用した。 1643年、ロクロワの戦いでフランス軍はスペイン軍のテルシオを打ち破った。ブライテンフェルトの戦いと違い、本家スペインのテルシオが破れたことで、決定的にその価値は低下した。その後もテルシオは改良を加えられて使用され続けたが、1704年にルイ14世の孫フェリペ5世がテルシオに代えて連隊と大隊の編成を採用するにおいて、ついにテルシオは消滅した。 トルステンソン戦争(Torstenson War)とは、1643年から1645年にかけて行われたスウェーデンとデンマークとの戦争である。三十年戦争中の局地戦であるため、正確な呼称はないが、デンマークはトルステンソン戦争と呼称している。スウェーデン軍の指揮を執った将軍レンナート・トルステンソンの名に由来する。また、トルステンソンの電撃的な侵攻作戦を第二次ポエニ戦争のハンニバルになぞらえて、ハンニバル戦争とも呼ぶ。 この戦争は、当時ドイツ・神聖ローマ帝国で起きていた三十年戦争と関連性があった。デンマークは、国王クリスチャン4世が、ドイツにおいて、デンマーク戦争を引き起こしたが、皇帝軍に敗北を喫している(リューベックの和約)。その後、スウェーデンが、グスタフ・アドルフの元、三十年戦争で成功を収めると、クリスチャン4世は、危機感を抱くようになった。 1632年にグスタフ・アドルフが戦死すると、クリスチャン4世は、北欧における優位を取り戻そうと画策を行うが全て失敗した。 デンマークの対スウェーデン政策は煮え切らないものであった。であったから、この戦争の真の意味とは、スウェーデンによるデンマークへの牽制であった。またスウェーデンは、後期三十年戦争の成功により、北ドイツに拠点を持っていた。そして、オランダとも同盟関係にあった。三十年戦争において、優勢に立ったスウェーデンが、今までの対デンマーク関係を解消しようとするのは明白であった。1643年、宣戦布告は、スウェーデン側から為された。 しかし戦争は、奇妙な戦争から始まった。宣戦布告を行ったにも 関わらず、スウェーデンは一向に攻めてくる気配が無かった。クリスチャン4世は全く油断していた。スウェーデン軍は、ボヘミアにいたのである。スウェーデン軍の指揮を執るトルステンソンは北上し、デンマーク国境に迫ったのは、その年の12月であった。デンマーク軍は、戦争準備を行っていなかった。トルステンソンのスウェーデン軍は、翌1644年1月、戦闘らしい戦闘もないままユトランド半島を制圧してしまったのである。この時、グスタフ・ホルン将軍も戦線に復帰し、スコーネを占領した。しかし、陸戦はここで終了した。 デンマークの切り札は、海軍であった。また首都もユトランド半島ではなく、スカンディナヴィア半島南端スコーネ地方との中間にあるシェラン島にあった。戦争の主要な戦闘は、艦隊戦へと移って行く。 クリスチャン4世は、自ら海軍の指揮を執った。国王は、海戦で負傷するも勇気を示した。しかしスウェーデン艦隊も善戦する。トルステンソンは、戦争にオランダを引きずり込んだ。スペイン艦隊を破ったオランダ艦隊に期待をかけたのである。だがデンマーク艦隊もひるまなかった。 海戦は主にドイツ側のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の首府キール沿岸、キール湾で行われた。海戦は、一進一退であった。しかし次第にデンマーク艦隊は、各個撃破され、長期戦に絶える事が不可能となった。ここでスウェーデンの成功に慌てふためいた神聖ローマ帝国皇帝軍が、デンマークを救うためにユトランド半島に侵攻したが、トルステンソン将軍に撃退された。皇帝軍の総司令官は、皇帝の弟であったが、この敗戦の後、辞職を余儀なくされた。 1644年9月にフランス王国が調停に乗り出し、翌1645年2月、ブレムセブルー条約(ブロムセブロー条約)が結ばれた。結果は、デンマークのスウェーデンによる屈服であった。デンマークは、これを境に、大国から転落して行った。 スウェーデンは、この戦争の勝利によって、バルト海制覇を成し遂げる事に日経225 した。後顧の憂いが無くなったスウェーデンは、再び三十年戦争に本腰を入れるのである。 オルタラ伯レンナート・トルステンソン(Lennart Torstenson Greve av Ortala、1603年8月17日 - 1651年4月7日)は、スウェーデンの将軍。三十年戦争後半のスウェーデン軍を率いた。砲兵将校出身ながら陸軍元帥まで上り詰めた、当時としては稀有な人物である。 1603年8月17日、トルステンソンはエルヴスボリ要塞の司令官トルステン・レンナートソンの息子に生まれた。15歳になるとグスタフ2世アドルフの近習となった。1621年から開始されたリヴォニア侵攻で初陣を経験し、リガ攻略にも加わった。続くスウェーデン・ポーランド戦争にも参加、この頃、グスタフ・アドルフはしばしばトルステンソンを直属の伝令将校として活用した。 トルステンソンの軍人としての資質を物語る逸話として次のようなものがある。ある戦いで伝令に派遣されたトルステンソンは、敵軍が動きを変えたため、王の命令が状況にそぐわないものであることに気がついた。そこでトルステンソンは自身の判断で命令を変更し、グスタフ・アドルフの下に戻ってそのことを報告した。王はトルステンソンの判断の正しさを認め、「レンナート、この命があるのは君のおかげだ。君は近習よりも将軍の装束の方が相応しい」と言ったという。1628年、ポーランド戦の功績が認められ、トルステンソンは中佐に昇進、連隊の指揮を任された。 1630年、スウェーデンは三十年戦争に介入してドイツへ侵攻、スウェーデン戦争が開始された。この年、トルステンソンは大佐に昇進し、砲兵隊の指揮を任された。1631年、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン軍は皇帝軍を撃破、続くレヒ川の戦いでも勝利した。これら一連の戦いでトルステンソンは砲兵の指揮を執り、勝利に大きく貢献した。1632年、トルステンソンは将軍に昇進。しかし、アルテ・ベステで皇帝軍の捕虜となり、2年間にわたってインゴルシュタットに投獄された。この獄中生活でトルステンソンは体を壊し、その後亡くなるまで病躯に苦しめられた。1634年、開放されたトルステンソンは軍に復帰し、ヨハン・バネールの指揮下に入った。 1635年、フランスがスウェーデンと先物取引 を結んで三十年戦争に介入、フランス・スウェーデン戦争が開始された。スウェーデン軍は東ドイツに侵攻、1636年10月4日、ヴィットストックの戦いで皇帝軍を破った。この戦いでトルステンソンは右翼の指揮を執り、勝利に貢献した。その後、スウェーデン軍はポンメルンまで侵攻、1637年から1639年にかけて同地で戦いを繰り広げ、1639年4月14日、ケムニッツの戦いで皇帝軍を破った。1641年、獄中生活で体を患っていたトルステンソンは、休養のためにスウェーデンに帰国した。この際、女王クリスティーナの枢密院に入った。 1641年5月、スウェーデン軍総司令官のバネールが死亡、トルステンソンが総司令官ならびにポンメルン総督に選出された。FX 初心者 に昇進したトルステンソンは、再びドイツへ派遣された。1642年からトルステンソンはブランデンブルク、シレジア、モラヴィアに侵攻、皇帝軍の主要な要塞をすべて制圧し、ザクセン軍を撃破した。1642年10月23日、第二次ブライテンフェルトの戦いにおいて、皇帝軍に死傷5,000人、捕虜4,500人という多大な損害を与えて勝利した。 1643年、スウェーデンはデンマークに宣戦布告した。この時、トルステンソンは再びモラヴィア方面へ進出していたが、本国からの指令に従って急遽軍を返した。スウェーデン軍は電撃的な侵攻で1644年1月までにはユトランド半島を制圧、その後、救援のために派遣されてきたマティアス・ガラス率いる皇帝軍も迎撃した。海戦でもスウェーデン海軍がデンマーク海軍に勝利し、デンマークの敗勢は決定的なものとなった。1645年2月、ブレムセブルー条約が締結されてデンマークとの戦争は終結した。この戦争はトルステンソン戦争、あるいはハンニバル戦争とも呼ばれる。トルステンソンによるユトランド半島への急速な侵攻を、第二次ポエニ戦争でイタリア半島へ侵攻したハンニバルになぞらえたのである。 デンマークの制圧を終えたトルステンソンは、先物取引 ドイツへ戻った。1644年11月23日、ユーターボークの戦いで勝利したスウェーデン軍はボヘミアへ侵攻。1645年2月24日、帝都プラハの南南東わずか50キロの地点で皇帝軍と対峙した。このヤンカウの戦いにおいて、皇帝軍に死傷4,000人、捕虜4,500人という多大な損害を与えて壊滅させたスウェーデン軍はプラハの門前へ迫り、皇帝フェルディナント3世はレーゲンスブルク、リンツを経てウィーンへ逃亡した。このスウェーデン軍の圧勝を契機に、停滞していた講和会議が本格的に始動したものの、条約締結にはなお3年の歳月が必要であった。 目覚しい勝利を幾度も手にしたトルステンソンだったが、この頃にはますます体調が悪化しており、軍務が耐えがたくなっていた。1646年、トルステンソンは司令官を辞職、後任にはカール・グスタフ・ウランゲルが就任した。 スウェーデンに帰国したトルステンソンは、1647年にオルタラ伯爵に叙任された。1648年から1651年にかけて、トルステンソンはスウェーデンの西部諸州の総督を務めた。また、カール10世の軍事教官も務めた。1651年4月7日、トルステンソンはストックホルムで亡くなり、リッダルホルム教会に埋葬された。 グスタフ・ホルンやヨハン・バネール、カール・グスタフ・ウランゲルと並び、三十年戦争中のスウェーデン軍では指折りの将軍であった。1632年に捕虜となった後は体調を崩し、戦場でも担架に乗っていなければならないほど病弱だったが、その指揮能力は確固たるものだった。第二次ブライテンフェルトの戦いやヤンカウの戦いにおける目覚しい勝利はその表れである。トルステンソン戦争における電撃的な半島制圧など、戦略面でも優れた資質を見せた。また、砲兵将校から軍歴を開始し、元帥まで上り詰めたという稀有な軍人でもある。